昭和41年12月23日 朝の御理解



 (途中末尾切れ)
 昨日信心をさせて頂きますと、誰でも今日は使います、言葉の中に御用ということがあります。今日もどうぞ御用をお許し下さい。ここんところを、ただ何かをしておる、なら仕事をしておるということが、御用じゃないのです。自分がするなら御用うと言う様な、御用なると御の字をつけるっていうあります。言うならばです神様の手になり、足になりと言う様な、用をさせて頂いて初めて御用なる。
 御用なる。それで言うならあなたのお店が神様のお店、と言う事になる時に初めて御用と言う事になるのです。例えば、堤商店なら堤商店と、というのがです、ほんとに神様のお店としての、自覚とその働きというものが、あっておるならば御用なのです。けれどもこれも私じゃもん、これも私がしよると言うとです、すればやはりどこまでもその堤商店である。ただそこで働きよるというだけ。用をさせて貰いよるだけのこと。
 御用じゃない。例えば、ここで人を取り次ぎ助けられることの為の、働きというものがです、椛目にあっておると。神様のそうした生き生きとした働きがあっておる、その働きの用を奉らせて貰う時に、それがほんとの御用になると。ですから御用御用と言うけれどもです、ただお百姓さんが仕事をしておることが御用じゃない。そのこと自体が神様の、特別な働きの中に、その御用が神様のほんとの、お働きを実感させてもろうて、させてもらう用であったら御用ということになる。
 例えば御造営なら御造営があっております。神様が成程御発動増しましておるなと、神様が成程思い立ってござるんだなあと、それを実感させて貰う。そしてそれに対するところの、奉賛の働きを惜しまない、いや真心込めてそれを成させて貰う時にです、成程神様の御用じゃなあと実感する事が出来るのです。例えば今高島さんなんか、毎日午前中をですか、現場の御用を毎日なさっておられる。
 なるほど神様の御用させて頂いておるんだな、という実感が伝わってこなんなら、それはあんたがあそこに、行っておるだけばい。なぁんにんなりよらん、と言う事になるのです。そこにです私どもが用をさせて貰う所に、神様の御用をさせて下さい、と願う所にはです、やはり真心一杯の実意丁寧一杯の、御用をさせて許される、許しを頂かなければです、成程神様の御用をさせて頂いてるんだな、と言う事は分からん。
 成程もう1年半以上も、あぁして現場に毎日御用の方達が、2人多いときには3人も、おい出られる。それが続けられておるということは、ほんとに有難いと思う。そこにほんとにその御用に自分が使われておる、という実感を持ってその日々の御用、あの御用をです、あれも直接確かに一つの御用に間違いないのだけれども、その実感を頂いてから、御用を頂くことの有難さを感じておられる、人が何人おるだろうか。行ってから別に大工左官の、監督が出来るだけの、言わば仕事に詳しいということでもない。
 行ってからあそこで労働しよる、何か他の御用でも何かお掃除をするとか、泥運びをするとかと言う様な事もないのだ。けどもやっぱり御用に行っておるから、けれどもその御用が御用としてのです、ほんとにそういう働きを自分の身に感じて、今日もお使い回し頂きよったちゃなあと。自分で思うような、私はものがなからなければ、それは御用にはならずに、御用が私用になっておる。ね、一つ足らない。何が足りないかと。私用が御用になっておかげになると言う(めいしん)もある。
 私用というのは、一二三四の四。一二三四五の五用。それをもう一つ文字って、私用とは私の用、御用とは御用、ということにもなる。ですから私用から御用になる、ね、私共の心の中にほうんと、今日も御用させて頂いたんだなあ、という実感がないなら、今日の御用は四用だったから、もう一つ足りないものがあったなぁと悟らないかん。神様の生き生きとした働きがあっておる、その働きの手にもなり足にもならせて、頂いておるですから、神様に通うておらなければならん。繋がっておらなければ。
 繋がっておればその手が足が、やはり神様の御用だと、言うことを感じさせて貰える様な、事になってくる。昨日朝の御祈念に、( ?)秋永先生が、委員長が参ってきておりましたが、そしてお取次ぎを頂いてから、昨日一日の御用をさせて頂いて、当然まぁもう大変大事な問題でしたが、経理関係でしたから、久保山茂さんと、秋永先生と、それから渡辺先生と、あっちの終日もう私がここ下がろうとしよりました、もう下がっとりました。昨日七時でしたから。
 下がっとりましたら茂さんと、秋永先生とやって見えましてから、お届けをされるのにもう本当にですね、何て言うでしょうかねもう只々恐れ入ってしまう事ばっかりだったと言う事。もうこういう難しい問題が、こう言う風なスムーズにです、こういうタイミングようです、頂きゃそれが一言ではない二言ではない、それがあれも是もそのその働きというものですね。茂さんが言っておりました。本当に私はこの経理という御用を通してです、神様の間違いなさ、って言うものをいよいよ、分からせて頂きますとこう。
 そして成程御用に使われておるんだなと、言う事を実感いたしますて。(  ?  )もそうです。十万と十七万と、十四万かお金を支払わなければならない。前の日までなかった。茂さんとしてはこれはどうしようか、十四万ばかりたらないが。あくる日そのお届けに来た時には、丁度銀行に丁度預金をその日の内も含めると、二十四万何ぼになると。そう言う様な事が一遍二編じゃない。もう何時もの事なんです。ですからそれを実際に取り扱わせて頂く茂さんが恐れ入ってしまうなぁと言う事なんです。昨日の事なんかはもう二月位くは、必ずかからなければならないというのが1日で済んでおる。
 そのことをこう言うとりますよ。お届けの言葉の中に。不可能なことが可能になっておると言う事。出来ないもう絶対に出来ないということがです、ね、可能になられておると言う事がです、いかに神様のお働きを頂いておったか、成程機が熟しておったかと言う事を感じます、とこう言うております。まぁ本当にその内容を、私にはそれがあんまりピンとこないのですよね、(そう、じんとくな)いろんな問題ですから。
 けれども話を聞けば聞くほどに、これ絶対できるはずではない、ですから一方のほうではたかをくくる、とてもそれはいくら逆立ちしても出来ないと、言う風に言うておったのがっです出来る。もうその辺がですね、もうほんとに恐れ入ってしまう訳なんですけれどもでです。(さきの)、今日親先生がみえる。今日はもう昼過ぎには来て頂いてから、まず御造営の現場の方を、ご夫妻に見て頂いて奥様と。そしてこちらへこれはもう1年、1年前に見て頂きましたですから、そのあの見て頂くことになっておる。
 まぁ親先生いろいろと尋ねられるに違いない。そんとき秋永先生がいうておられました。秋永先生がもうとにかくこうやって、御用に使うて頂いておりますが、私共の様な者でも、ここ1年何ヶ月という間は、使われお使い回しいただいてです、ただ神様のお働きに、もう恐れ入ってしもうとりますということ以外には、説明はできんて言うとります。ほんとに御用に使うて頂いて、神様のお働きの間違いない、御用を通して神様の間違いなさを、分からせられておりますというのである。
 これになって始めて私は、御用だとこう思うんですね。いわゆる御用その御用を通して、ほんとに神様の働きが分かるほどのです、私は御用であって始めて御用ということが言えるのじゃなかろうかとこう思うです。毎日働かせて頂いておるということがです、神様のそうした働きと繋がっておるなあ、というものをです実感できなかったら、ね、御造営成就信心生活運動と、私共させて頂いておるその御用が、そのまま御造営に繋がっておらなければならない。成程繋がっておる印だなと。
 繋がっておるからこそ、これだけの事が出来るんだなと言う様なです、おかげを頂いて初めて、自分は神様の手になり足になりするところが、ほんとの御用と言うようが、出来ておるなということになるのです。ですからそこまで、私共は進めていかなければ。ところがそれではない、確かに御用のようだけれども、その実感が自分の方に伝わってこない、今日も結構な御用に使うて頂いて有難かったなあ、というならそれが場合によってはです、不可能なことが可能になっていく。
 この働きを見ただけでも、神様が特別な働きを下さっておるんだな、その働きの中に自分がお使い回しを頂いておるんだなと言う事をです、感じさせて貰えるおかげを頂いて、初めて御用なんですよ。ですから一生懸命働いたけれど、その実感がないなら、もいっちょ何かが足りなかったんだと。一二三、四用であったんだと。そこで私それをお詫びならお詫びによってそれを、まぁ御用に近づかせて板だいかなならん、明日はほんとの御用になるだろうな、いわゆる思い方を持って、御用させて貰わなきゃならないと。
 私用が御用にならなければおかげにならん。そういう意味で私はこの御造営成就信心生活運動というのはです、もう私どもがしておるその事がです、御造営に繋がっておる、繋がらなきゃならん、という思いの所からですね、その運動が起こされるならばです、必ずそこに成程、神様の御用をさせて頂いておるなあと言う事が、実感出来るようなおかげが頂けれる。いわゆる御用との内容をです、本当に実感して感じられる。
 昨日も、今日の準備でちょうど1時半頃まで、皆さんかかりました。神饌室もやっぱ、勝手のほうも終わって、片付けが済んだ途端に停電でございました。そう言う所がんなら、おかげ頂かせてもろうて、成程御用に使うて頂いとったんだな、と言う実感があるわけです。私やかましい、昨日夕べ、私しらじゃった。そんなことはでけん、そげなことじゃいけん、もう明日昼に見える明日後大祭がある、明日お祭りがあると思うて御用ばしときなさいと私、片付けておきなさいて。
 それからあただにその八足組み立てから、神饌物も出来るだけのことは、しとこうということになってです、1時過ぎまでかかった1時半までかかったんですよ。それにその先生方いっつもする積りじゃったかんしれん。けれども朝の内そんな事でバタバタして、さあ先生もう向かえいかにゃんと、もう12時過ぎにはこらっしゃるぞと、はぁそいで繁雄さんが、まぁだお茶の準備もしちゃない。だから私ちゃんと明日はお茶の準備だけしてしもうてから、明日こういうお茶を、こう言う風なふうで。
 あげると言う事を、一遍私に飲ませなさいっち。(  ?  )、ことをしてからです、(  ?  )、お茶を上がってください。あちらの親先生にこういうと、こういうふうにしてあげようと思いますから、そいでなからねば私が安心いかんち、私が言うてから、まあてんやわんやで一所懸命なさいました。だからそこまでと一遍確かめさせて頂いてから、あのおかげ頂きました。
 そして停電。さぁそしてから停電はもうちょいと、一服すりゃ点くじゃろうち思いよった所が全然点きません。今朝方恐らく点いとるとじゃろうと思いますが、あのそげなこつです。成程信者さんがやかまし言うばってん、成程御用じゃったなぁちいうことが分かるじゃない。皆さんが御用御用という、ただ言うておるだけではです、東京の役人のごたるです。だから( ? )の、役人が言う様な御用御用ではいけません。
 ほんとに御用に使われておるんだなぁという実感。その御用を通して特に御造営なら御造営の御用を通して、成程神様の手に足に自分がならせて頂いておるという、そこに血が通うておる。そういうものをです、私共が感じるような、働きがなからなければ御用とは言えん。ところが実際は感じない。それならもう一つ何かが欠けておるんだと。御用が私用になっておるんだと。そこでもう一つをそれに、加算させて貰う時にです
  (途中末尾切れ)